2019年01月23日

モカの香りにつつまれて 3

 わたしたちは、ほとんど毎日、バンドの練習のために集まった。夕方5時くらいに集まって、そのまま9時、10時まで、練習は続いた。

 すべてが健志のオリジナルだったから、アレンジも白紙の状態からはじまる。だから、練習といっても、最初は、ああでもないこうでもないと言い合いながら、一応納得のいくアレンジを作り上げるだけで、あっという間に時間は過ぎていった。

 練習が終わった後も、場所を居酒屋やラーメン屋や定食屋に移して、走り書きのような譜面を前に、アレンジの細かな修正なんかをしたりした。時には、健志の部屋で、夜中までということもあった。

 眠気をさますために、健志はよくコーヒーをいれてくれた。「老後は喫茶店でも開くかな。」というほど、健志はコーヒー好きだった。

 そんな風にして、ライブ用の5曲が一応の形を整えるまでに、3ヶ月ほどかかった。

 アレンジを作り上げる過程で、すでに、かなり、バンド演奏の練習もしていたとはいえ、アレンジが出来上がった途端に、1ヶ月後にライブの予定を健志が組んでしまったのには驚いた。わたし自身は、まだ、大勢の観客の前で歌えるほど、健志の歌を歌いこなせているとは思えなかったからだ。

 「江里子は一度ライブを経験した方が、いい歌が歌えると思ったから。」

 それが健志の理由だった。

 ライブまでの一ヶ月は、ほんとうにあっという間に過ぎた。多少ましになってはいたが、相変わらずわたしの歌は、健志におんぶに抱っこの状態だった。


 ライブの前日、すでに緊張の塊と化していたわたしを、珍しく、健志は家まで送ってくれた。

 「やっぱり、わたし、だめよ・・・」

 そう言いながら健志を見上げたわたしの目は、たぶん、生まれたばかりの小猫のように怯えていたと思う。

 「心配しなくても大丈夫だよ。」

 そう言いながら、健志はいつものように優しく微笑んだ。

 「ライブの間だけ、俺に恋しろよ。俺も江里子に恋するからさ。」

 健志が、わたしの気持ちに気づいていなかったのか、それとも気づいていながら気づかないふりをしていたのかは、わたしにはわからない。そのときにはすでに、わたしは健志に恋をしていた。ただ、その気持ちを、必死で健志に気づかれまいとしていたことも事実だった。

 「ライブの間は、恋人同士になったつもりで歌えばいいの?」

 わたしの言葉に、健志はやっぱりあの優しい微笑みで答えた。
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2019年01月22日

モカの香りにつつまれて 2

 電話のベルがなったのは、それとほぼ同時だった。

 受話器をとる。

 「はい。」

 「江里子?俺。わかるか?」

 確かに、わたしは江里子だけれど、「俺」でわかる男の知り合いは、別れた夫以外に思い浮かばない。しかし、受話器から聞こえて来た声は、別れた夫のものではなかった。

 わたしは、思わず黙り込む。どう答えていいかわからなかった。

 「久しぶりだからなあ。俺の声、忘れちまったか・・・」

 受話器の向こうの声は、それほど失望したようでもない。「まあ、当然だろうな。」というような調子だ。でも、確かに、その声には聞き覚えがある。

 「健志?」

 わたしは、懐かしい名前を口にしてみた。ほとんど確信しながら。そして、狂おしいほどの切ない想い出が、隙間だらけの心に押し寄せて来るのを感じながら。


*     *     *     *     *


 健志とは、短大1年の夏、絵美を通じて知り合った。当時絵美のつきあっていた彼が、一橋大学の軽音楽部に所属していて、健志も同じサークルに所属していたのだ。

 その頃健志は、コピーばかりやっているバンドに飽き飽きしていて、オリジナルをやれるバンドを作りたいとメンバーを探していた。健志がやりたいと思っていたのは、バービーボーイズのような男女のツインボーカルのバンドだった。

 健志のパートはギターとボーカル。ドラム、ベース、キーボードともう1人のギターは軽音楽部の仲間の中から見つかった。けれど、肝心の女性ボーカルが見つからず、絵美の彼を通じて、絵美の短大仲間に声をかけてきたのだった。絵美は、真っ先にわたしに声をかけてきた。絵美とは、よくカラオケに出かけていたが、わたしの歌をとても気に入ってくれていた。

 カラオケで歌うならともかく、バンドのボーカルとなると、わたしは少し尻込みした。カラオケなら、観客は、ごく少数の知り合いしかいない。バンドとなると、ライブハウスでライブもやることになる。確かに歌うことは好きだったけれど、もともと気の小さい方だったわたしは、大勢の観客の前で歌うことなど、考えたこともなかった。

 尻込みしているわたしを、絵美が無理矢理、健志のところに引っ張っていった。


 軽音楽部のあまりきれいとは言えない部室の中で、はじめてわたしを見たときに健志が言った言葉を、わたしは、今でもはっきり覚えている。

 「ルックスは合格!」

 健志はそう言って微笑んだ。

 その瞬間にわたしの心に起こったことなんて、全く気づかないように、

 「じゃあ、ちょっと歌ってもらおうかな?」

 健志はそう続けた。

 わたしは、内心かなりドキドキしながら、言われるままに、バービーボーイズの曲を二曲ばかり、バンドの伴奏で歌った。もちろん、健志と一緒に。

 ドキドキしてかなり緊張していたのに、歌い出すと、自分でも信じられないくらいよく声がでた。はじめて一緒に歌ったのに、まったくそんな気がしないくらいに息が合って、ほんとうに気持ちよく歌えた。

 「サイッコー!」

 歌い終わった後、健志は小躍りするようにそう叫んで、わたしに微笑んだ。
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2019年01月21日

モカの香りにつつまれて 1

 始めたばかりの仕事で神経を使うせいか、金曜日の終業時間になると、どっと疲れが出る。わたしは、重い身体を引きずるようにして、やっとのことで家までたどりついた。

 鍵をあけて部屋に入っても、誰もいない。真っ暗の部屋は、妙に冷たかった。

 メッセージが残されていることを知らせる留守番電話のシグナルの点滅だけが、暗い部屋の中に浮かんでいた。

 ほんの一月前までは、わたしは、ごくありふれたどこにでもいる主婦だった。そのことに別に何の不満もなかったし、夫にも十分尽くしていたと思う。夫も、そのことはちゃんと理解していてくれたはずだ。

 でも、きっとわたしには、何かが足りなかったのだろう。わたしが、平々凡々な主婦に満足して呑気に過ごしている間に、夫は愛人を作った。

 それだけなら、そして、わたしのもとに帰って来てくれたなら、わたしはたぶん夫を許しただろう。でも、夫は帰って来てはくれなかった。

 夫から突然離婚を切り出されたときには、頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。

 「好きな人ができた。」という夫の言葉も、どこか上の空で聞いていたような気がする。

 気持ちが落ち着いてくると、今までの結婚生活がすべて色褪せて見えた。「絶対に離婚はしない!」と頑張る気にはなれなかった。もう愛されていないのなら、結婚生活を続けても仕方ないと思った。離婚となった場合に一番考えなければいけない子供も、わたしたちにはいなかった。

 わたしは、夫に言われるままに、離婚届に印を押していた。


 真っ暗な部屋の中で、わたしはしばらく、ドアの前でぼんやりしていた。明かりをつける気にはなれなかった。暗く冷たい部屋、そこでしばらく寂しさを噛み締めるのが、最近のわたしの習慣になっていた。いつからこんなに自虐的になったのだろう。

 暗闇の中で、わたしは、のろのろと電話機に向かう。この部屋の電話番号を知っている人はそれほど多くない。留守電にメッセージを入れたのも、母か絵美だろう。絵美は、短大時代からのわたしの親友だった。

 留守番電話が再生したのは、発信音と記録時刻を知らせるメッセージだけだった。少し気味悪い。この部屋の電話番号を知っている人間で、無言のメッセージを入れる人間がいるだろうか?

 そのままどっとソファの上に腰を下ろしながら、わたしは、この部屋の電話番号を教えた知り合いの顔を、一人一人思い浮かべてみる。やはり、無言のまま切りそうな人間は思い当たらない。

 とりあえず、わたしは、絵美に電話してみることにした。というより、絵美と電話で話すことは、ほとんど毎日の日課だった。時には朝方までの長電話に、絵美はいやな顔一つせず、つきあってくれた。絵美がいなかったら、この身を裂かれるような孤独の中で、わたしの精神は崩れ去っていたかもしれない。

 わたしは、もう一度電話機に向かおうと、重い腰をあげた。
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